縄文ランプ 第75話 12日目④
夕食の広場。
ササヒコ 「みんな、聞いてくれ。
祭りは、いよいよあさってに迫った。
明日の夕食は、シカ村の方々とも、御一緒する。
そこからは、わし達も、お祭り気分になるだろう。
明日の夕刻までが、祭りの準備の仕上げだと思ってくれ。
今夜の酒は、禁止する。
食事が終わったら、男衆はここに残ってくれ。
スサラとヤシムは、大ムロヤで、子供達とグリッコ作りなどをしてくれ。
女衆はいろり屋に集まり、タマの采配で振舞いの下ごしらえをしてくれ。
今夜は、大屋根の前とどんぐり小屋や作業小屋の近くでも焚き火をする。
気付いた者は、消し熾き作りをしてくれ。
今年は例年よりも参加者が増えるかも知れん。
明り壺の祭りが賑わいを増すのは、我らがウルシ村にとっても誉れだ。
みんな、よろしく頼んだぞ。
それからくれぐれも、無理はせんようにな。
では、夕食を楽しんでくれ。」
ヤッホ 「アニキが見つけたアケビの谷だけど、この地図で言うとどの辺りだい?」
シロクンヌ 「このブナの森だが、奥がかなり深い。
だから位置的には、ここらだな。」
ヤシム 「道から結構離れてるのね。分かりにくい場所なの?」
シロクンヌ 「かなりな。
何と言うか、途中の地面なんかが湾曲していて錯覚しやすいんだ。
方角を見失う。
たまにそういう場所はあるんだよ。
おれは、匂いを頼りに進んだんだが・・・」
ハニサ 「シロクンヌって、ニオイに敏感だもんね。
雨雲のニオイだって分かるんだよ。」
ヤシム 「今、雨雲のニオイする?」
シロクンヌ 「全くしない。
だが、何かのニオイがするんだよな・・・
普段しないニオイが。
地面全体から。」
ササヒコ 「話の途中にすまんな。
ハニサ、いきなりで悪いんだが、今回から、希望があれば、
参加者にも囲い筒を作ってもらおうかという意見が出てな。
粘土の余分はあるか?」
ハニサ 「あるにはあるけど、明日掘って来てもいい?」
ササヒコ 「かまわんが、一人では無理だろう? シロクンヌの明日の予定は?」
ハニサ 「粘土はアケビの谷にあるの。」
ササヒコ 「それならハニサの手伝いをしてもらえんか。
ハニサ、粘土は、掘った後に搗(つ)くんだろう? ちから仕事だ。」
ハニサ 「うん。搗いて固めに粘らせられたら、囲い筒には最適だよ。
シロクンヌ、手伝ってくれる?」
シロクンヌ 「もちろんだ。どうせおれはそこに行くはずだったんだから。」
ササヒコ 「頼む。ハニサは、明日は夕刻まで、そっちに係ってくれ。」
ヤッホ 「何だ? 揺れてるぞ! 地震か!」
ヤシム 「大きいね!」
ハニサ 「あ!」
ヤシム 「やっとおさまった・・・」
ハニサ 「明り壺、見てくる!」
ササヒコ 「わしも行こう!」
作業小屋。
ハニサ 「囲い筒は無事だ!」
ヤッホ 「こんなに積み上げて、よく倒れなかったな。」
ヤシム 「隙間がないから、良かったんじゃない?」
ハニサ 「だめ! こなごなになってる! 明り壺は、全部こわれちゃった!」
ササヒコ 「なんという事だ・・・」
シロクンヌ 「ハニサ・・・」
ハニサ 「どうしよう・・・」
━━━ 幕間 ━━━
縄文ランプ。
作者は、縄文時代にランプは存在していたと思っています。
釣手土器がそうでしょう?と言う声が聞こえてきそうですが、確かに釣手土器もランプ使いしたのでしょうが、出土数が少ないですし、普段使いではなく祭祀の道具の様な気がします。
出る地域も限られていますしね。
ここで言うランプとは、日常生活で使う燈明皿のようなものを指します。
土器の燈明皿がもしあったのなら、相当数が出土しているはずですが、
燈明皿とおぼしき物は遺跡から出ていません。
ですからもしランプがあったのなら、残らない物、もしくは残っても用途不明な物、そういう物質でランプの容器はできていたはずです。
ではその物質とは何か?
ズバリ、粘土です。
焼かれていない粘土です。ナマの粘土ですね。
作者は、食用サラダ油を使って実験しています。
粘土は市販の陶芸用。
芯はティッシュペーパー。
粘土で小皿やぐい呑みの形を作ります。
なんとそれで完成。乾かす必要すらありません。
すぐに油を注ぎ、油を沁み込ませた軸を挿し、火を点ければランプとして使えます。
粘土は崩れませんし、油もにごりません。
水を注ぐと粘土は崩れますが、油では崩れないのです。
粘土は、油には溶け出さないと言うわけです。
これは乾いたナマ粘土に対しても言えること。
乾いたナマ粘土の小皿やぐい呑みに油を溜めて、一週間放置しても粘土は崩れません。
油もにごりません。
芯を挿して火を点ければ、それでランプとして使えます。
こんな非常に簡単な方法で、ランプは出来てしまうのです。
これは、現代のアウトドアでも使えそうでしょう?
ただし、芯に接した部分は、ススで真っ黒に汚れますよ。
油はにごりませんが、ナマ粘土に染みて行きます。
でもそれは土器に対しても同じ事。
自作の土器のぐい呑み・・・
(市販の陶芸用粘土に砂をまぜ、炭火で焼いた物。推定焼成温度は700℃。小さな器ですが、水を注ぎガスコンロにかけて火を点け、沸騰させたこともあります。つまり、鍋使いも可能です。)
・・・に油を入れ、一週間放置すると、外から見てハッキリ色が変わるほど油が染みました。
土器は水も染みます。(漏れるという意味ではありません。)
現代人がよく目にするやきものは、釉薬使用の陶器や磁器でしょう?
これは水を弾きます。
それに高温焼成のやきものは、焼き締っていますから、無釉であっても水は染みません。
対して低温焼成の土器は水が染み、その水が器の外側から蒸発します。
その時に気化熱が生じ、器の中の水は冷やされます。
ですから土器に溜めた水は冷たくなり、腐りにくいのです。
ちなみに土器のぐい吞みでお酒を飲みますと、唇がぐい吞みに吸い付きます。
ちょうど珪藻土のバスマットに、風呂上がりの足の裏が吸い付くようなものですね。
縄文人は粘土で様々な物を作り、その中の一部を焼いたのではないでしょうか?
焼かなかった粘土製品が、彼らの身の回りには、わんさかあったのかもしれません。
そう考えなければ、出土した土器や土偶の制作技術の高さが、説明つかないと思います。
いったいどこであれだけの腕を磨いたと言うのか?
土偶など、凄い技術を要する出来の物が、ポツンと出て来るのです。
99個作れば、100個目からはこれくらいのレベルの物が作れそうだねと、そんな風に見える土偶の99個目までが、ほとんで出て来ていないのです。
これは、焼かなかった粘土で腕を上げたとしか思えません。
焼く基準の一つが、水と接するということ。
水を溜める物は焼いた。
油と接する物は、焼かなかった。
なぜなら、焼く必要がまったく無いからです。
乾いてカチカチになった粘土は、そこそこの強度がありますよ。
それに、泥団子を思い浮かべてもらえば分かるように、着色も磨きもできます。
テカテカに光るのは、焼かれていないナマの粘土の方なのです。
そのナマ粘土で出来た、いろんな物があったのかも知れないでしょう?
焼かないのであれば、砂を混ぜる必要はありませんから、スベスベの物が出来たでしょうね。
ここで少し土偶の話をします。
土偶とは、土で出来た偶像です。
そして最終的には、わざと割ったとしか思えない壊れ方をしたものです。
わざと割って、破片をあちこちに埋めた。
そこには、永久に残そうとした意図は見受けられません。
では、なぜ焼いたのでしょうか?
例えば祭祀に使ったとしても、それは据え置いて使ったのでしょう?
だったらナマ粘土であっても、まったく問題は無い。
この点を誰も口にしないのは、作者には大きな謎です。
出て来た物しか見ないから、そうなるのでしょう。
出て来るのは焼かれたものだけですから、土偶はすべて焼かれたものだ、となるのです。
1万年に亘る縄文時代。
しかし出土した土偶の数は、全国でたったの2万個。
これは、焼かれた土偶が少なかったと考えるべきではないでしょうか?
あの高等テクニックを、封印してしまったのでしょうか?
もしかすると縄文社会には、ナマ粘土による土偶が、ゴロゴロしていたのかもしれませんね。
しかしそれらは、いずれは崩れ去る運命にあります。
遺跡をどれだけ探しても、分子レベルの何か、しか存在していません。
元がどんな形だったのかなど、分かるはずもない。
話をランプに戻せば、ランプとして使えばススが付いて黒く汚れます。
油も常時あった訳では無く、切らしている時の方が多かったかもしれません。
油が切れたら燈明皿も捨ててしまって、油が手に入ったらチョチョイと作ったのかもしれませんね。
つづく。