縄文GoGo

5000年前の中部高地の物語

縄文GoGo GoGo流縄文時代の基礎知識 『住居』

皆さま、お世話になっております。

 
さて、ここでは、縄文GoGoとしましての、縄文時代はこうだった!という見識を申し述べてみたいと思います。
 
これはあくまで、わたくしダケカンバの見解でありまして、ご賛同頂けない向きもおありでしょうが、そこはひとつご容赦頂いて、出来ますれば最後までお付き合いください。
では早速始めていきましょう。
 
 
 
通説・・・『縄文人は、日当たりの良い丘の上などに竪穴住居を建て、そこで暮らしていた。』
 
この様に書かれた本が、実に多いですね。
 
 
GoGo流・・・『縄文人様々な住居に暮らしていた。その中で、発掘調査と相性がいいのが竪穴住居である。』
 
と、こうなります。
えっとですね・・・
これは博物館の学芸員さんの中にもよくお見掛けしたのですが、「雨上がりに地面に穴を掘れば、その穴の中に水が湧きだす、そんな場所は多い。」と言う事実をご存じない方が多いのです。
穴の上から水が流れ込むのではないですよ。
掘った穴の、壁面から湧き出すのです。
何度汲み出しても、すぐにある程度の高さまで水が溜まります。
そういう場所に竪穴住居をこしらえますと、雨が降ったら水が湧きます。
床が水浸しになってしまって、炉が使えなくなります。
 
これは、川のそばだから水が湧く、と言うのとも違います。
地形的に、あるいは地層的にそうなっているから、水が湧くのです。
 
一例を挙げれば、背後に小高い丘がある場所。
そこの地面に穴を掘れば、背後の丘に降った雨の水、それが湧いて来て穴の中に溜まります。
ただし、丘との間の地層が途切れていれば、そうはなりませんが。
ですから丘の上ならば、水は湧き出しません。
実際、河岸段丘の上などで、竪穴住居跡がよく見つかるようです。
そこは日当たりも良いのでしょうが、それが為にそこを選んだのではなく、水が湧かないからそこになったのです。
 
では、背後に小高い丘がある場所、そこにヒトは住まなかったのでしょうか?
わたくしダケカンバは、おそらくそこでも住んだのだろうと思っています。
ただし、竪穴住居に、ではありません。別の建物ですね。
それは発掘調査と相性が悪いモノ、つまり見つからない物だったはずです。
想像ですが、一つはテントの様な物だったと思います。
テント式ならば、雨水が入り込まない様に、むしろ盛り土したかも知れませんね。
 
ここで念のためにご説明しておきますが、発掘調査で住居跡が見つかったとしたら、それは何が見つかったのかと言えば、穴の跡が見つかったのです。
かつてそこに柱が立っていた、そういう穴の痕跡が見つかった訳です。
柱や梁やその他もろもろの建築部材、それらはすべて朽ち果ててしまって残っていません。
ですから住居跡というのは、穴の痕跡の集合体という事になります。
 
もちろん低湿地遺跡などで柱や梁が出たケースもあります。
富山県の桜町遺跡が有名ですが、ただしこれは、例外中の例外です。
ここでは詳しく触れませんが、この遺跡での発見は非常に貴重で、4千年前に高床式建物があった事を証明しました。
一つの遺跡での発見により建築史がくつがえるのですから、それほど建築部材は残らないのです。
 
表面の黒土に大きな穴を掘り、その下の赤土までも掘り下げる・・・
そういう穴の跡は、見つけやすいのです。
まさしく竪穴住居跡がそうですね。
なにしろ居住スペース全部を掘り下げているのですから、これは見つけやすい。
 
表面の黒土にだけ小さな穴を掘り、そこに柱を建てる・・・
その穴の跡は見つけにくい、と言うより、見つけるのは不可能でしょう。
木の柱は朽ち果てて土に還りますが、その土こそが黒土ですから。
事実、土器や石器は多く出土するが、住居跡が見つからない・・・
そういう縄文遺跡は多いのです。
とにかく、竪穴式ではない、平地式の住居跡は見つけにくい。
 
それから、ツリーハウス。
もしあったとしても、まあ何も出土はしないでしょうね。だって穴掘ってないもん(笑)。
本当にそんなのあったの?と問われると・・・もしかするとあったかも知れない、となります。
 
日本の地において、最も樹木と親しんだ人たちは縄文人であったはずです。
平均的現代日本人が有する樹木に対する知識の、100倍以上の知識を彼らは持っていたと言っていいのではないでしょうか。
一本の樹から、生活に必要な様々な物を産み出しているのですから、樹木への観察姿勢は異常なほどです。
我々から見れば、樹木博士ですね。
 
一例をあげれば、出土例は非常に少ないのですが、樹皮を様々な剥ぎ方をしています。
サクラの皮を例に取ると、
横剥ぎ・・・樹皮にタテに切れ目をいれて、ヨコに向かってグルっと剥ぐやり方。
らせん剥ぎ・・・りんごの皮をむく様に、螺旋状に剥ぐやり方。
        クルクルとカールした、非常に長い皮が得られます。
それからなんと、まったく切れ目の無い、グルっと一周つながっている皮が出ています。
いったいどうやったのでしょうか?不思議ですよね。
これはおそらく、スッポ抜きだと言われています。
YOU-TUBEにも動画が出ていますから、興味をお持ちの方はそちらをご覧ください。

『【白樺細工】白樺の樹皮の抜き方』というタイトルの1分あまりの動画です。

ツルンと皮から木部が飛び出す様子が面白いですよ。
 
彼らにとって、作りたい物によって樹種を使い分けるのは当たり前で、鳥浜貝塚出土品で見ると、縦斧の柄(え)はユズリハ属、横斧の柄はクマノミズキ類かクヌギ節、弓はニシキギ族かアカガシ亜族、丸木舟や板材はスギ、といった具合です。
 
それに何と言っても、ウルシの樹液を接着剤使用するだけでは飽き足らず、塗膜利用し始めました。
これは凄い技術です。
ここでは詳しくは触れませんが、ただ単に塗ればいい訳ではありません。
何工程もの繊細な作業を通過して、初めて漆塗りが仕上がるのですから。(漆塗りの発祥は中華大陸だとする説もあります。)
 
たとえば各時代からランダムに100人を選んで木登り競争をさせたとしたら、縄文人が圧勝するでしょうね。
それに出土しないだけで、彼らの身の回りには、木登りの為の道具がいろいろあったような気がします。
彼らにとって、木登りは日常行為だったでしょうから。
 
縄文の前の旧石器時代は、非常に寒冷でしたから、木の実が生っていません。
そもそも樹木自体、少ないですからね。
 
この様に見て来ても、縄文人の樹木への思い入れは、我々の想像外です。
樹木と一体となってそこに住まう、その道を選んだ人がいたかも知れませんよ。
まあ、縄文GoGoの中には居ますけどね(笑)。
 
 

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写真はあくまでイメージです。
 
 
縄文時代を語るにおいて、発掘調査と相性がいいがどうかは、非常に重要なポイントとなります。
相性バツグンなのは石器、それから土器。これらは大抵の土壌から出土します。
次点で骨角器。
貝塚、低湿地、岩陰(川の浸食によって出来た洞窟。焚き火の灰が酸性土壌を中和する。)などから出土します。
これが木材となりますと、低湿地意外、なかなか見つかりません。
相性最悪なのは、毛皮。
どこからも、見つかっていません。
しかしみなさん、縄文人が毛皮を利用していなかったと思いますか?
おそらく毛皮は利用していたでしょうね。
 
毛皮に限らず、動物遺骸は骨と歯(牙)と角以外、何も出ていません。
鹿の膀胱で水汲みしていたとしても、その証拠品は出ていない。
猪の脂で軟膏を作って塗り薬にしていたとしても、証拠品は残っていません。
本来、遺跡から出土した物は、彼らの生活痕の一部に過ぎないはずです。
もしかしたら、木を使ってもの凄い物を作っていたのかも知れないでしょう?
ところが考古学者の中には、出土した物だけで話を完結させたがる人もいます。
出て無い物は無かったとみなす、そんな風に見受けられる人達です。
旧石器時代には、丸木舟は無かった。そう言い切る人もいます。
千葉県市川市の雷下遺跡で出土した7500年前の丸木舟が、国内最古の物だからです。
縄文時代の丸木舟は150体ほど見つかっていますが、どこで見つかったかと言えば、海辺、もしくは琵琶湖周辺の低湿地遺跡からです。
ですから旧石器時代に丸木舟がもし有れば、同じような場所で見つかるはずですよね。
ところが旧石器時代の海岸線はどこにあったのかと言えば・・・
4万年前で80m低い位置。2万年前なら130mも低い位置なのです。
当時の海岸線は、今から見れば遥か海の底なのです。
そんな所、探せないでしょう?発掘調査とは相性が悪い場所ですよね。
発掘調査との相性と実際の暮らしぶり、それを切り離して考えるのがGoGo流のやり方なのです。