縄文GoGo

5000年前の中部高地の物語

ウラ話③ ネバネバ②

 
 
そもそも大豆の来歴はと言えば、ツルマメの栽培種であるとされています。
逆に言えば、ツルマメとは大豆の原種だ、となりますね。
そのツルマメですが、少なくとも1万3千年前には存在していたことが分かっています。
もともと自然界に存在していたツルマメを人間が栽培しているうちに、それが大豆に変化していったというのです。
つまりどういう事かと言えば、ツルマメは小っちゃくて硬くて食べにくいのですが、その中から大きく実った物を選んで播種しているうちに、段々と豆ツブが大きくなって行って、やがて大豆となって定着したという訳です。
 
さて、中山誠二先生から納豆の実験の話を聞いてしばらく経った頃、図書館にて、とある本が目に飛び込んで来ました。
 

あらすじ・内容

アジア辺境の納豆の存在を突き止めた著者が、今度は、IS出没地域から南北軍事境界線まで、幻の納豆を追い求める。隠れキリシタン納豆とは。ハイビスカスやバオバブからも納豆がつくられていた!? そして、人類の食文化を揺るがす新説「サピエンス納豆」とは一体。執念と狂気の取材が結実した、これぞ、高野ワークスの集大成。

 

<サピエンス納豆>?
これってもしかして・・・
で、さっそく手に取っていました。
すると、やっぱりそうでした。著者の高野秀行さんは、中山先生と出会っていたのです。
 
 
          大豆が先か?納豆が先か?
 
縄文時代に対する考え方として、狩猟がメインで採集や漁労も行われていたと、最初は思われていました。
それが、いやいや植物栽培だってやっていたんじゃないの?となります。
そして、海辺で養殖だってやっていたかもしれないよとなっていき、今では、沖縄ではブタを飼ってたかもしれないよ?という意見さえ現れました。
縄文中期には「農耕」が行われていたという見解もありますし、とにかく縄文人の生活実態については、30年前とは違ったイメージで描かれるケースも多々あります。
 
そんな中、『縄文GoGo』の作者としての私にも目論見があります。
それは、世間一般が持つ縄文人のイメージを根底からくつがえし、幅広い意味でカッコいい・・・そんな人達が暮らす時代であったという風に描いてみたい訳です。
そして高野さんが提唱した<サピエンス納豆>という発想は、まさにそれに一役買ってくれているのです。
 
つまり普通に考えればですね、まず大豆があり、そこにコメ作が渡来し稲藁が手に入る。
そしてある日、稲藁にくっ付いていた大豆が、偶然による何らかの作用から、納豆に変化しているのが見つかった・・・
納豆誕生の背景に、そういう流れを想像するのが自然ですよね?
ところが高野さんは、大豆が納豆を生んだのではなく、納豆が大豆を生んだのかも知れない・・・と、こうおっしゃる訳です。
 
そもそも縄文人は、なぜあんなに食べにくいツルマメなどをわざわざ栽培したのでしょうか?
それは、ツルマメを食べやすくする方法を知っていたからではないのか?
食べやすくする、つまり柔らかくする方法、消化しやすくする方法・・・
それこそが発酵させて納豆にすることだったのではないでしょうか?
もしかすると、大豆が登場する5千年前よりももっと以前から、縄文人は納豆を作っていたのかも知れません。
<サピエンス納豆>を。
 
まずツルマメ納豆があり、そして大豆が生まれ、そのあとに稲藁が渡来し現代的な納豆になる・・・
そのひらめきについて、高野さんは中山先生に意見を求めます。
そして、その可能性は十分ありますよ、となり「南アルプス市ふるさと文化伝承館」では更に実験が続けられる事になります。
 
材料とするのは、ツルマメ。
枯草菌の素となる葉っぱは、トチ、ササ、アシ、ススキ、クリ。
すり潰したツルマメを使ったりして(ひきわり納豆ですね)、試行錯誤を重ねた様です。
 
ウラ話でネバネバを取り上げるにあたり、私は再び「南アルプス市ふるさと文化伝承館」に電話取材をしました。
「クリの葉で作ったものは、本当に美味しいですよ。」
女性職員の方はそうおっしゃいました。
どうやら実験に成功したのかな?
 
そして勝手にですが、私は確信しました。
クリの葉とツルマメで美味しい納豆が出来るのであれば、中部高地の縄文人は、ツルマメ納豆を作っていたに違いない!
だってウルシの樹液を使って、漆という塗膜を発明したのが縄文人ですよ。
ここで詳しくは書きませんが、これは非常に高度な技術を要することなのです。
ウルシと並んで縄文を象徴する植物、それがクリです。
彼らは栗の実を食べ、栗の柱の住居に住んでいました。
クリの樹は、常に彼らの身近にありました。
クリの葉っぱだって、きっと何かに利用していたはずです。
 
私のような素人はそうやって勝手に決めつけて満足していてもいいのですが、専門家はそうはいきません。
常にエビデンスを求められ、客観的な事実の提出を迫られます。
しかし納豆そのものが5千年前の地層から出土する事など、金輪際無いでしょう。
ですから状況証拠の積み重ねをすることになります。
そこで中山先生は、当時存在していた物と技法、それだけを使ってどうやればツルマメにバチルス属サブティルスという納豆菌とまったく同じ菌を発生させられるか・・・
その実験に成功し、論文にまとめ、それを今年の5月29日に行われた日本考古学学会で発表したそうです。
「いや、6年掛かりましたよ。」
嬉しそうに、そうおっしゃっていました。
 
私は思うのです。
遺跡から出た物は、有ったと言っていい。
しかし出ていないからといって、無かったとは言い切れない。
そうではあっても考古学という分野において、出ていない物を有ったと証明する行為は、非常に困難を伴う事だと思います。
いや困難では済まず、不可能なのかも知れません。
 
一般に縄文文化と言えば、まず土器や土偶が思い浮かびます。
土器や土偶で、縄文文化の大半を語ろうとする人も多いと思います。
でもそれは、土器や土偶が地中で保存されやすかったからです。
だからこそ、ユニークな焼土製作品がたくさん出土したのです。
 
対して地中で消滅してしまった物も多いでしょう。
いやむしろ、そちらの方が遥かに多いはずです。
その中にも、素晴らしい文化があったはずでしょう?
氷期が終わり温暖な気候となり、植物相も現代に近づきます。
草原や針葉樹林帯だった場所が、食べられる木の実が生る広葉樹林帯となって、定住が始まり縄文時代の幕が開きます。
それを思った時、縄文とは、じつは植物の文化が花開いた時代だったのではないか?
・・・そんな気がしてならないのです。
 
たとえば樹皮や板に、ユニークな絵画が描かれていたかも知れない。
驚くような木工品や木の道具があったかも知れない。
当時はおそらく誰もが縄を綯(な)い、糸を撚(よ)り、籠(かご)を編んだのだろうと思います。
そして中には、とんでもなく精工な創りの物が有ったような気がしてなりません。
現代でも再現不可能な物が。
 
そこへ持って来て「食」です。食文化です。
1万年前に、もしかすると植物から発酵食品が作られていたかも知れないなんて、空想するだけで浮かれちゃいますよ。
日本文化の原点を覗き見た気分になりませんか?
 
縄文時代は分からない事だらけ・・・
出土した物というのは、じつは縄文文化の一側面に過ぎないのかも知れません。
出土した物だけでさえこれほど魅力的なのに、本当はもっともっとファンタスティックな世界・・・
それが縄文時代の実相だったのかも知れませんね。