縄文GoGo旅編 第37話 8日目④
山掛け小屋。夕刻。
小屋の前では大きく火が焚かれ、夕食の準備中だ。
タカジョウ 「ねぐらが最初から出来てるってのは便利この上ないな。
メシの支度に集中できる。」
テーチャ 「タカジョウ、なんか嬉しそー。
いっぱい串も打ってるし、料理が好きなの?」
タカジョウ 「そうなんだよ。山で一人暮らしだと暇を持て余すだろう。
そんな時は、いろんな料理を試してたんだ。
おい、ミツ、その木はくべてはいかんぞ。」
ミツ 「これ、何かに使うの?
割いて、薪にしようと思ってた。」
タカジョウ 「熾き焼きに丁度いい倒木があったんで、持って来たんだ。」
テーチャ 「おきやき?これでどうやるの?」
タカジョウ 「長さが一回し(70cm)で、太さが半回し(35cm)だろう。
ミツ、半分に割いてみてくれ。
芯は腐っていて、ボロボロ取れるはずだ。」
ミツは石を割って作ったクサビで、丸太を割いた。
すると中身は、虫食いやら腐食やらで、石でこすればボロボロと剥がれ落ちてくる。
タカジョウ 「よし、あとはおれがやるよ。
ここからはこうやってな、きれいに削っていくんだ。
半割きだから、似た物が二つ出来るだろう。」
サチ 「分かった!串を渡す台なんだね。
粘土を採って来る。ミツ、行こう!」
ミツ 「ああ、粘土を塗るのか!
水場の近くに粘土があったよ。」
テーチャ 「そう言う事ね!
串を立てて焼くんじゃなくて、その木に渡すように乗っけるんだね。」
タカジョウが即席で削った木。これの内側に粘土を塗る。そして、熾きを投入。
横長七輪みたいな物。点火中でも持ち運び可能。
薄くであっても粘土が塗ってあれば、熾きの火は木に燃え移らない。
テーチャ 「あ、イワジイとシロクンヌが帰って来た。
また山ほどススキとクマザサを背負ってるよ(笑)。」
タカジョウ 「あれが普通だ(笑)。
柴でも何でも、山ほど背負わんと気が済まん男だぞ。」
テーチャ 「アハハ。そうなんだ。なんだかシロクンヌらしいね(笑)。
お帰りなさい。」
イワジイ 「ふー。シロクンヌは凄いのう。
ススキ刈りのついでだと言うて、あっと言う間にウサギ2匹とウズラを1羽狩りよった。
カラミツブテの達人じゃな。」
テーチャ 「すっごーい。」
シロクンヌ 「テーチャ、ススキはこれで足りるか?」
テーチャ 「足りるに決まってるでしょ。
だって、サチとミツは蓑(みの)を持ってるんだよ?
イワジイとあたしの蓑を作るだけだから・・・
そうだ、笠も編んでおこうか。雨笠。」
ミツ 「粘土を採ってたら、サチがカブテでハトを狩ったよ。」
テーチャ 「えー!サチまでカラミツブテが出来ちゃうの?」
サチ 「父さんに教わったの。」
テーチャ 「なんかイエの人ってやっぱり凄いんだね。」
タカジョウ 「食材が増えたが、どうする?」
シロクンヌ 「おれの予想では、夜中に降り始めて、明日は終日雨だ。
たぶん明日は狩りもしづらいだろうな。
ウサギとハトは明日の分に回そうか。」
タカジョウ 「ではウズラは叩いてつくねにするぞ。
香草を混ぜてもいいな。
だがその前にシップウだ。寝かしつけて来る。
小屋の一番奥を使ってもいいだろう?」
シロクンヌ 「ああいいさ。シップウと寝るのも台風以来だ。」
テーチャ 「ねえタカジョウ、調理はまかせちゃって、あたしは蓑と笠を作っててもいい?」
タカジョウ 「ああ、戻ったらおれがさばくよ。」
シロクンヌ 「おれは明日に備えるか。火熾しで使えそうな物を探してくる。
サチ、行くぞ。
ミツはススキの穂をしごいて、小袋に詰め込んでおいてくれ。」
ミツ 「はい。火口に使うんだね。粘土も塗っておくね。」
イワジイ 「あの辺り、あやしいのう。生えとりゃあせんかな・・・」
小屋の近く。夕食。
シロクンヌはアブラチャンの枝とダケカンバの倒木を持ち帰っていた。
一度細く割いたアブラチャンの枝を再び束ね、それにダケカンバの樹皮を巻く。
そうやって作られた手火が、数ヶ所で手火立てに挟まれ燃えていた。
だから焚き火の炎だけでなく、小屋の前はそこここで明りが灯っていた。
タカジョウ 「熾き焼き台は、ここと・・・もう一個はここに置くぞ。
串物だが、ウズラの心臓と肝の串はテーチャの分だ。
血のもとになる物を摂っておいた方が良いからな。
つくねは骨も砕いて混ぜてある。
サチとミツはたっぷりと食えよ。骨が強くなる。
その横にある串はアナグマの胃袋だ。
ジイ、大好物だったろう?
芹(せり)と交互に刺してみた。セリマだ。
あのフキの葉に載ってる串は、アナグマのモモ肉。
あばらの肉は、骨しゃぶりだ。
焼けば脂がしたたるぞ。
シオユ村の塩をかければ最高だろうな。
だが骨が割れて弾けるかも知れんから、気をつけてくれよ。
ジイが採って来たブナシメジと平茸の半分には串を打った。
焦がしキノコで味わってくれ。
残りの半分と黒マイタケはムジナ汁に入れた。
ムジナ汁のダシは、ジイ持参の鮎の焦がし干しだ。
あの小ヒョウタンの大きい方はシオユ村の塩。
小さい方は、山椒の粉。
その隣は、くさみ葉(行者ニンニク)と茎わさび。
その他香草がいろいろある。好みで使ってくれ。
まあ大体、そんなとこだ。
さあ、好きに焼いて食ってくれ。」
みんなが串に飛び付いた。
熾き焼き台の使用例。くり抜いた木の内側に粘土を塗って熾きを載せる。
冬場は、火鉢として屋内で使ってもいい。
さて、ここから夕食の会話が弾むのですが、それは次回に譲るとして、ここではこの熾き焼き台について考えてみたいと思います。
まず、こういう物って、実際にあったと思いませんか?
ここで熾きを使っているのは、縄文時代に炭は無かったとされているからです。
でも私は、炭はあったかも知れないと思っているんです。
ただし縄文遺跡からは、炭焼き窯の跡は発見されていませんから、窯焼きではなく、別の方法で作られた炭ですね。
その炭焼き法については、この先の物語り中に登場させるつもりでいます。
炭についてですが、もっと言ってしまえばですね・・・
もしかすると、竪穴住居が出来た当初から、その最初から、竪穴住居の炉では、炭が使われていたのかも知れないと私は思っているのです。
私には、もともと竪穴住居とは、炭を使用するのを前提として設計された物だとしか思えないんです。
そうではあるのですが、ただここでの本題は炭の話ではありません。
粘土の方です。
私は今まで、縄文時代がいつから始まったのか、その起源についての明言は避けて来ました。
それには理由があるのですが、それがこの熾き焼き台の粘土なんです。
こういうのって、ずいぶん昔からあったんじゃないかと、私には思えるんです。
たとえば、16,500年前にもあった気がするんですよ。
旧石器人も火は焚いていたし、火を焚けば熾きも出来ます。
炎だけではなく、熾き火で肉を焼いていたかも知れません。
粘土を間に挟めば火が燃え移って行かない、その事に気づいた人だっていたと思うんです。
氷期で寒かったのですから、火鉢くらいは作っていても不思議は無いでしょう?
テントの中にだって持ち込めますからね。
それでですね、この粘土ですが、適度に焼成された可能性ってあるでしょう?
熾き火だけで縄文土器は焼かれたのかも知れない、そう言っていた陶芸家もいました。
陶芸家の吉田明氏です。
氏の縄文土器に対する見識は素晴らしく、この本は陶芸の本ですが、私が今までに読んだ縄文関係の書物の中で、私が最も影響を受けた一冊です。
土器を焼くのに炎は必要無く、熾き火や炭火の熱で十分に焼けます。
表紙の写真の、氏の右手の前に置かれた尖底土器、その中で燃えているのが熾きです。
氏は、このやり方で実際に何個も土器を焼いてみたそうです。
私も実際に、これに近いやり方で土器を焼きました。
では、熾き焼き台の粘土が焼成されたとした場合、その時の見た目って、どんな風だと思いますか?
これは、日本最古の土器片と言われている物です。
そしてもしかすると、世界最古の土器片なのかも知れません。
青森県の大平山元Ⅰ遺跡(おおだいやまもといちいせき)で出土した、16,500年前の物です。
文様は無く、無文土器であり、縁(へり)の部分は見つかっていません。
そして、これをもって、縄文時代の始まりを16,500年前だとする見方が、今の主流になっているようです。
言われる通りに、これが土器の一部であった可能性は、もちろんあります。
ただ縁が出ていないので、器であったとは断言できないとする意見もあります。
では私の意見はと言えば・・・
人類にとって、土器の発明は大きな進歩でした。
革命的な出来事だと言っても過言ではありません。
土器があるおかげで、煮炊きが容易にできるようになりました。
天然の植物が持つベータデンプンを、ヒトが消化できるアルファデンプンに変化させるには、煮炊きするのが一番です。
煮炊きによって楽にアク抜き出来る物も含めると、食べられる植物の種類が圧倒的に増えたのです。
現在、サラダとして食べる生野菜は、それ用に品種改良された物です。
天然種で生食に適した植物って、じつは意外に少ないようですね。
このように土器の存在は、人類の食料事情に大いなる躍進をもたらしました。
そしてこれらの土器片と呼ばれている物は、そんな土器発明のヒントになった物ではないかと思うのです。
つまり、これら自体は土器ではなく、何かの拍子に焼成された物。
たとえば私が言うところの熾き焼き台、それで使われた粘土が焼成されれば、これとそっくりになるかも知れません。
以上は私独自の考察ではあるのですが、絶対にこうだと言うつもりなどサラサラ無く、可能性の一つを提示したに過ぎません。
ただこういう発想って、考古学の人からはなかなか出て来ないように感じています。
それに、もしこれらが最古の土器ではなかったとしても、それで価値が薄れるとは思いません。
そもそも「最古の土器」とは、「出土した土器の中で最古の物」という意味であって、「人類が最初に発明した土器」ではないですよね。
では、人類がどうやって土器を発明したのか?
それは、大いなる謎なのです。
そしてもしかするとですね、これらこそが言ってみればひらめきの素であり、こういう物を見て、人類は土器を発明するに至ったのかも知れないでしょう?
当時の人々は、こういう焼成物を産み出す何らかの活動をしていたのです。
そういう意味で、これは超特級の資料であり、非常に重要な出土品であるのは間違いないはずです。
ですからこれらこそが、土器発明の謎を解く鍵ではないかというのが私の意見なのです。
そして私の中では、「最古の土器」よりも、「土器発明の謎を解く鍵」の方が、遥かに魅力的な存在なのですよ。