縄文人、もし戦わば。
現代日本人のDNAを調べた結果、本土日本人には30%ほど縄文人の遺伝子が含まれていることが分かっています。
これが沖縄やアイヌの人達となると、もっと比率が上がります。
これは、北海道から沖縄まで縄文人は暮らしていて、絶滅は無かったことをあらわしています。
ただ考古学者の中には、北の文化、中の文化、南の文化と文化の差異を執拗に強調し、まるで異人種が住んでいたかのように錯覚させ、どっかの国の日本分断化計画のプロパガンダのお先棒を担いでいるんじゃないの?と言いたくなる人達がいますから要注意です。
そもそも「弥生人渡来」という言葉が馬鹿馬鹿しい。
「弥生人」と言う人種ないしは民族が、大陸のどこかにいたのですか?
渡来したのは、大陸人でしょう?
つまり弥生人誕生の地は、日本です。
でもDNAを見る限り、日本人は東アジアのどの民族とも大きく違っています。
あと、『縄文GoGo第25話』の幕間にも書きましたが、「稲作伝来」と言う言葉にも私は疑問を持っています。
とにかく、言葉の選択が不適切な歴史学者が多過ぎます。
例えば、「縄文時代は男女平等だったか?」を論じようとしたりします。
男女平等だったはずが無いでしょう。
男と女の間には、明確な役割分担があったに決まっています。
同じ事を同じ様にする、など有り得ない。
論じるとするならば、「男女対等であったか?」です。
私は縄文時代は男女対等であったと思っています。
そしてそれは当時において、世界中で縄文人だけがそうだったかも知れないと思っています。
大陸では、男は女を隷従させていたでしょう。
だってそうでしょう?
琉球王国の時代に、「中国」という言葉も、国も、概念も存在していませんよ。
「中華」という言葉はありましたが、「中国」という言葉が生まれたのは100年ほど前です。
中華民国が中国ですから。
これは、「日本」「日ノ本」に対抗して考え出された言葉だと言われています。
日が昇る国に対抗して、世界の中心の国という気概のあらわれですね。
ちなみに日本神話の「芦原の中つ国」の中つ国とは上中下の中の国という意味です。
横の広がりの中の、中心の意味ではありません。
上は高天原。下は黄泉の国。つまり人が暮らす、この世をさしています。
そして現在、中国と言えば、中華人民共和国ですね。
明と清と中華人民共和国は、地理的に重なる場所があるというだけで、それぞれ全く別の国です。
ここで言う弥生人とは、私が否定した、従来認識型の弥生族とします。
渡来した弥生族が、先住民としての縄文人と対立したという仮定です。
弥生族がその気になれば、縄文人を駆逐できたかどうかの考察です。
弥生族は金属の武器を持っていますし、馬に乗ることも出来ます。
大陸の進んだ文化を身に付けていますから、弥生族、つまり弥生人の圧勝だとされて来た訳ですね。
でも私の考えは全く違います。
戦闘を行えば、縄文人の圧勝です。
だって弥生族って農耕民なんでしょう?
農耕民が、戦闘で狩猟民に勝てる訳がない。
縄文男子は、子供の頃から弓矢の腕を磨いています。
その矢に、もしかすると、トリカブトの毒を塗っていたかもしれません。
おそらく木登りだって得意だったでしょうね。採集民でもありますから。
樹の上で待ち伏せして、共同で獲物を追い詰め、狩る。
それが縄文人の日常です。
獣に負けずに山や森を駆け回るのが縄文男子なのです。
山や森に潜む縄文人を、山駆けに慣れていない弥生族が、どうやったら駆逐出来るのでしょうか?
また、縄文時代には、牛も馬もいません。
使役できる家畜がいなかったのです。
よって、全ての労働は人間が行いました。どんなに重い荷も、ヒトが運んだのです。
そういう身のこなしを、一人一人の縄文男子が身に付けていたはずです。
体格がどうであれ、戦闘で大事なのは身のこなしです。
徒手で取っ組み合いになったとしても、縄文男子は強かったでしょうね。
それに何と言っても重要なのがケハイの問題です。
気配を消せるか?気配を感じ取れるか?の問題ですね。
気配を消して、獣に近づき、狩る。それが縄文人の日常です。
これは音を立てずに歩くという意味ではなく、周りの音に溶け込む音しか立てないという意味です。
これには相当な訓練が必要です。
そして、獣が立てるわずかな気配を察知しようと訓練して来たのが縄文男子なのです。
馬に乗って戦えば、弥生族が有利だろう?と言う人がいるかも知れません。
確かに平原での戦闘なら、そうかも知れませんね。
ところが、北海道は別ですが(北海道に弥生時代はありません)、当時の日本に平地など存在していなかったと思いますよ。
平地は、古墳時代以降に人間が造ったのだと思います。牛馬は利用したでしょうが。
当時はほとんどが山で、低地は湿地か荒れ地。馬に乗って駆け回る場所など無かったでしょうね。
山と言っても、大半が手付かずの原生林です。
その後、焼き畑などで様相が変わったのでしょうが。
https://twitter.com/boppo2011/status/541049002246938624
左は古地図です。おそらく奈良時代以前に描かれたものだと思われます。1500年ほど前に、濃尾平野がそっくり海だったなんて驚きですよね?
でも実際、この地には海にまつわる地名が多いのです。
その場所に、そういう名前の島が描かれている古地図もあります。
大半は人間が埋め立てたのだと思います。
でも考えてみればそうですよ。河口の位置が常に変わっていましたから。
2万年前は、130mも海面が低かった。河口は遥か海の底です。
縄文海進では、5mほど現在よりも高い。約6000年前の話です。
その後海退が起きて、それが落ち着くのが3500年ほど前でしょうか。
たぶん千年や二千年程度では、木曽三川をもってしても、広大な平野は造れないのでしょうね。
弥生族が縄文人に勝利するとすれば、それはダマシ討ち以外になかったと思いますよ。
友好を装って近づき、寝込みを襲う、みたいな。
しかしそんな手口も、すぐに広まってしまうでしょうね。
では縄文女子の戦闘力はどうでしょう?
例えば平安時代の農民女子と、5000年前の縄文女子を比べたとしたら。
私は、平安農民女子の圧勝だと思っています。
だって労働時間が違い過ぎます。
平安農民女子は、日が出ている間中、野良仕事をしていました。
じゃないと納税できません。
だからそれだけ体が鍛えられています。
縄文女子は、大した力仕事はしていなかったかも知れません。
力仕事は、男の役目だったでしょう。
納税の義務もありませんから、自分達が食べる分だけを狩猟、採集、栽培すればいいんです。
労働時間は一日3時間程度だった、と言う人もいますね。
私は、縄文女子は縄文男子から大切に扱われていたと思っています。
女性の墓に副葬されていた装飾品からそう思うのです。
貝輪程度なら女でも作れるでしょうが、石の加工はおそらく男がしていると思います。
女性へのプレゼントですね。
女性には身を飾っていて欲しかったのだと思います。
そして女性に喜んで欲しかったのでしょう。
対して男の墓からは、装飾品ってそれほど出ていないようです。
力の要る加工品をプレゼントするということは、重労働も肩代わりするということでしょう?
縄文時代、男から見れば、女性は命懸けで出産してくれていました。
では男の役目は何かと言えば、そういう女性を命懸けで護ることだったと思います。
そういう意味で男女対等だったのだと、私は思っています。