縄文GoGo

5000年前の中部高地の物語

縄文のコトダマ

 
 
縄文人の信仰について、アニミズムであったとするのが考古学界の主流のようです。
アニミズムとは何かと言えば、世の中すべての物、生物であれ無機物であれ、とにかくすべての物に霊が宿っているという考え方だとされています。
精霊信仰と訳されたりもします。
でもなぜ縄文人=アニミズム、そう言えるのか?
その納得のいく説明を、私はまだ目にしたことがありません。
推測するに、アイヌの宗教観を参考にしたのではないでしょうか。
 
でも私は、縄文人の自然観、宗教観をアニミズムとは別のものだととらえています。
縄文人の宗教観を構成する要素としてはいくつかあるのでしょうが、一つは言霊(ことだま)信仰。
もう一つは怨霊信仰。
その二つが関わっているのではないかと思っています。
つまり、現代日本人と同じですね。
日本人は無宗教だと言われたりしますが、とんでもありません。
言霊と怨霊。無意識のうちに、この二つには囚われているのではないでしょうか。
 
怨霊信仰については別稿に譲るとして、ここでは言霊信仰について考えてみたいと思います。
 
島国であるために、日本人は特異な歴史を歩んで来ました。
その結果、日本人ならでは、というのが多々ありますよね。
たとえば、日本語。
日本語は孤立語だと言われています。世界中のどの言語とも似ていない。
言語学では、日本語の起源については様々な説があり、いまだにコレだとは決まっていないようです。
でも見ていると、まるで外国の、どこかの言語に起源を求めなければならないと決めつけているような感じもします。
しかし、現代日本人のY遺伝子、つまり父方の祖先を調べてみると、縄文人にたどり着くのです。
もちろん混血はしています。ですが侵略もされていないし、民族交代もありません。
これからしても、日本語の起源は、縄文語なんじゃないですか?
縄文時代は一万年に及び、その間、大陸との交流は少なかったのです。
当然、独自の文化が育まれました。言語もその一つでしょう?
そしてこの間、日本列島の中では、人々は自由に行き来していました。
遺跡からの出土品が、それを証明しています。
たとえば一万年前の長野県の遺跡から、海の貝の装飾品がたくさん出ています。
それも貝の生息地を調べてみると、一ヶ所の海ではないのです。
 
方言はあったでしょうが、現在よりも、むしろ少ないかも知れませんよ。
なにしろ領地という概念が無かったのです。つまり、どこに行こうが自由です。
土器形体の違いから、地域による文化圏の区別をすることは可能ですが、縄文でくくれば共通文化です。
弥生以降、列島内での争いが生じました。
その結果、自由な往来は出来にくくなったでしょう。
すると閉ざされますから、言語にも地域色が出て来ます。
 
弥生以降、渡来人が様々な言語をもたらしました。
その人達との混血で、現代日本人がいます。
言語も同じで、縄文語との混血で日本語が出来たのではないでしょうか。
しかしあくまで、ベースとなっているのは縄文語です。
だから日本語は、世界でも特異な言語なのです。
縄文人のY遺伝子を持った男性は、大陸にはほとんどいません。
唯一の例外が、チベット高原です。
標高4千メートルの、攻め込まれない場所ですね。
 
日本語の特徴、それは一語一音節で、一語一語を明瞭に発音する点に現れています。
この特徴は、アイヌ語にはありません。
世界中の言語の中で、ほぼ日本語だけではないかと言われているようです。
母音も子音も、しっかりと発音するのが日本語です。
日本語で「ストライク」と言えば5音節ですが、英語で「strike」と言えば1音節です。
 
この日本語の特徴から、面白い現象が起きているようです。
日本人は虫の鳴き声を聞いて風流だと感じるのですが、驚いたことに、西洋人にとっては雑音にしか聞こえないと言うのです。
そもそも「虫の声」と言うでしょう。擬人化していますよね。
海が「唸(うな)る」と言いますし、小川の「せせらぎ」とも言います。
つまり日本人は、自然界の音に親しみを感じているのです。
これは日本人が、自然が発する音を、言語脳(左脳)で処理する稀有な民族だかららしいのです。
対して西洋人が言語脳で処理するのは、文字通り会話音程度です。
 
でもこれは遺伝子に原因があるのではなく、幼少期に使っていた言語に原因があるらしいのです。
音の捉え方について言えば、10歳まで日本語で育てば西洋人でも日本人のような感覚になるし、逆に英語で育てば日本人でも西洋人の感覚になるようです。
日本語の持つこれらの特徴は、縄文語にもあったのではないでしょうか?
もしかすると縄文語の方が、もっと研ぎ澄まされた効果をもたらしたのかも知れません。
 
私は『縄文GoGo』の中で、鹿や猪はあっさりと殺すくせに、樹を伐る前には大袈裟に祈りを捧げている縄文人の姿を描いています。
これはもちろん、意識してそう描いているのですが、それにはいくつか理由があります。
その一つが、縄文人には樹の声が聞こえていたのではないか?という思いがあるからです。
つまりですね、動物に対しては、急所を攻撃してなるべく苦しまないように、とどめを刺していたと思います。
ところが大樹となればそれはできません。
何百何千回と石斧を打ちつけ、倒すまでにはかなりの時間がかかります。
それに石斧とは、幹を切るのではなく、削り取る道具なのです。
ある意味、石斧で樹を伐る光景は、残酷なのです。
 
森に立つと葉や梢のそよぎが聞こえます。
石斧を打ちつけても音がします。
倒れる時には、それこそミシミシバキバキと大きな音が出ます。
それらの音を、もしかすると樹が発する声と捉えていたかも知れません。
 
樹だけではありません。
水が滴る声。雨が降る声。風が吹く声。地面を掘る時の声。石を加工する時の声。
これは、あらゆる物に霊が宿っているのではなく、命が宿っているということです。
つまり縄文人は、あらゆる物に息吹きを感じていたのではないでしょうか。
石も土も水も風も、もちろん樹も、自分達に近しい息吹く存在だったのかも知れません。
ハッキリとそう認識していたというよりも、ぼんやりとそう感じていたのではないかと、私は思っているのです。
 
そういう自然観が根底にあり、そこから少し飛躍しますが、言葉というものに対して、特別な思い入れが生じたのではないかと思うのです。
霊が宿るのは、世の中のあらゆる物にではなく、言葉そのものに霊が宿ると考えたのではないか。
そこで生じたのが、言霊信仰です。
 
この言霊信仰は、その後も脈々と日本人に受け継がれました。
そして現代日本人を、強烈に縛り付けています。
平和憲法が日本を護る」という発想は、言霊信仰そのものです。
憲法九条が日本を護る」と口に出して言えば、それは日本人にとって、立派に呪詛となり得ます。
 
日本人は、感染症に対しては猛烈に対策を講じました。
危機意識のかたまりと言ってもいい。
ところが現在の国際情勢を目にしても、なんら防衛策を講じようとしていません。
これこそが、縄文人現代日本人にもたらした、負の遺産ではないかと私は思っているのです。
 
世界中の人々にとって、憲法とは時代の変化に伴って改正して行く存在です。
情勢の変化に対応して話し合って改正して行く、当たり前ですよね?
私は今まで、日本には世界最古がたくさんあると言って来ました。
ここで一つ追加しておきます。
世界中の現行憲法の中で最古のもの、それは日本国憲法です。
75年間、改正どころか、話し合いも行われていません。
言霊には、議論すらさせない作用もあるのです。